気になる情報をチェック!

現在は日々の生活で少し気になったことの情報収集をしています。

少しでも気になったことが解消されたり、明日の話題の一つになれば幸いです!

主に若手選手や助っ人外国人選手、新人女優やグラビアアイドルについて掘り下げて書いています。
掘り当てた感と頑張っている人を応援できればいいなと思います!!

スポンサーリンク

港南区の民話って?【勝海舟の書】について調べてみました

結婚 地域

今回は港南区にまつわる民話をご紹介させていただきます。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

そもそも民話って?

民話、民間説話は、民衆の生活の中から生まれ、民衆によって口伝えで伝承されてきた説話のこと

昔話のほか、伝説、世間話その他を含める。

口承文学、また民俗資料の一、民譚ともいう。

ルーツは神話にあると言われています。

港南区には約50の民話があるといわれています。

その中から今回は勝海舟と永野小学校にまつわる民話『勝海舟の書』というものを紹介します。

 

【勝海舟の書】について

勝海舟といえば日本の江戸時代から明治時代の武士、政治家で、名前を知っている方も数多くいると思います。

経歴を思い浮かべると咸臨丸による太平洋横断、坂本龍馬も活躍した神戸海軍操練所、西郷隆盛との江戸無血開城などがすぐ思い浮かべる方が多いかと思います。

そんな明治時代の偉人が横浜市港南区にどんな所縁が?

今から130年ぐらい前のお話です。

江戸時代は今の学校はなく、代わりにあるのが寺子屋というものでした。

そこでは子供達が通い、読み、書き、そろばんを習うことができました。

しかし、貧しい家庭や女の子にはなかなか習うことができませんでした。

江戸幕府が大政奉還により、明治政府が誕生しました。

明治政府は学校制度を導入し、港南区の地域では寺子屋に代わる永谷学校ができました。

永谷学校では、貧しい家庭や女の子にも学業が受けられるようになり、その永谷学校という学校名を、勝海舟が書いたと言われています。

その勝海舟の書いた書が、今も横浜市立永野小学校に大切に残されています。

その永谷学校の校名を勝海舟が書いてたという経緯は?弟子の平野玉城との関係性。

永谷学校の校名を勝海舟が書いてくれたのには、平野玉城と永谷学校に関わる出来事がありました。

1868年の夕方頃、下永谷の村長福本さん宅へ慌ただしく、匿って欲しいと飛び込んできたものがいました。

それが平野玉城であります。

(※平野玉城とは、幕末の頃江戸九段坂上に生まれ、家は代々徳川家の家臣であった。)

福本さんは平野玉城を、蔵に匿ってやりました。

暫くすると政府軍の兵が数名で来て
屋敷中を探していきましたが見つからなかった為、引き上げていきました。

その甲斐があり、平野玉城は命拾いをしたのでした。

その5年後の1873年に、平野玉城は命の恩人、福本さん宅に再びお礼に訪れました。

その時に永谷の寺子屋の師匠をお願いし、子どもたち書写を頼むと、快く受けてくれました。

翌、1874年、玉城師匠は村人のすすめで永谷学校の先生になりました。

6年後に入学者が増えて新たな校舎の設立。

就任すると、入学者が増えて建物が狭くなりました。

1879年(明治12年)に永谷村に永谷学校の新校舎校舎を村人達の手で建設しました。

玉城先生は、その落成記念式にあたって、以前仕えていた勝海舟に、永谷学校の校名の書をお願いたところ、喜んでお受けてくれ、すぐに送られてきだそうです。

やがて1889年(明治22年)には永谷、下野庭、上野庭の三つの村が合わさり「永」と「野」の二字をとって永野村が出来ました。

校名も、『永谷学校』から『永野学校』へとかえられましたが、今も、『永谷学校』の伝統の書が残っています。

以上が『勝海舟の書』という民話です。

スポンサーリンク

まとめ

その実際の勝海舟の書は2012年に横浜市地域文化財に登録されました。

勝海舟の弟子の平野玉城が命を助けられて、お礼に訪れた際に寺子屋の師匠をお願いされ引き受ける。
その翌年には、近くの学校の先生になるというお話です。
現在では考えられない話ではありますが、平野玉城という人物がとても誠実だったことが伺えますね。

玉城は地域教育の立役者として地域住民から慕われており、その没後には上永谷にある寺院、貞昌院に墓碑が作られたそうです。

永谷学校が新校舎になった時に、かつて仕えた勝海舟に書を依頼して書いてくれる点に関しても、勝海舟としっかりとした信頼関係があったのではないかと思います。

また、 1903年(明治36年)7月21日、教え子は勿論、先生の徳を慕う人々により、十三回忌が盛大に行われた。列席した息子の直吉は感激し、導師をつとめた貞昌院28世住職・亀野源量和尚に勝海舟の書、「眠雲」を記念として贈呈された。現在その書は貞昌院の寺宝となっている。

勝海舟の書と一緒に横浜市地域文化財に登録された「学校沿革史」は、学制施行から永谷学校、永野小学校に至る 経緯、さらに職員・学校長・学務委員の任免などの沿革を明治末期に綴ったもの。永谷学校時代の職 員履歴に、玉城と玉城の子直吉の名があり、直吉は初代校長として記録されている。直吉は永野小学校の初代校長になっています。

十三回忌もそうですが、経歴についても感慨深いものがありますね。

学校の授業では習わない事、そんなエピソードが描かれているのが民話には多くあります。

大人が読むと5分もかからないものが殆どで、色々な知識を得られるのも民話の魅力です。

あなたも気になったら自分の地域のことを調べてみてはいかがでしょうか?

きっと子供の頃に感じた感情とは違うものが見えて面白いことが出てくるのではないでしょうか。

スポンサーリンク
地域
プロ野球名鑑と時々時事